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■2019年10月12日~12月1日 キノコヤ 「井上実展」テキスト

 

月や空が大きいのでもなく、草の露が小さいのでもない 井上実の絵画

                                                                                                                                                                    古谷利裕

 

《魚が水を行くとき、いくら泳いでも水に果てしがなく、鳥が空をとぶとき、いくらとんでも空に限りがない。しかしながら、魚も鳥も、いまだかつて水や空を離れたことがない。働きが大きいときは、使い方も大きいし、働きが小さいときは、使い方も小さい。》

《それにもかかわらず、水を究め、空を究めてのちに、水や空を行こうとする鳥・魚があるとしたら、水にも空にも、道を得ることも所を得ることもできない。そうではなく、この所を得れば、また、その道を得れば、この日常現実がそのまま永遠の真実となる。この道、この所というのは、大でもなく、小でもなく、自分でもなく、他のものでもなく、初めよりあるのでもなく、いま現れるのでもないから、まさにそのようにあるのである。》

(道元『正法眼蔵』「現成公案」現代語訳・玉城康四郎)

 

何もない無限定な広がりに、何か動くものが横切る。その時はじめて、広がりは「空」となり、動くものは「鳥」となる。鳥という形(図)が生じ、それ以外の部分が空となり、地として後退する。空がまずあってそのなかに鳥がいるのではなく、動くもの、形としての鳥が生まれることで、同時に空も生まれる。その意味で、鳥(図)とは、表現された空(地)の一つの側面であると言える。

現代のアートにおいて「美」というものが軽んじられていることを不当だと感じる。美は一種の予定調和であり、美に回収されない余剰としての、崇高、外部、他者、政治、権力、コンフリクト、プロセス、等々にこそリアルがある、と。だが、もはやこのような論理のあり方こそ紋切り型ではないか。

たとえば、図と地というものを考える時、地は図の外部なのではない。図は、地の一部であり、地の一つの側面を表現するものだ。図と地の関係によって一つの形態=美が生まれる。そこで、図によって地のすべてを汲み尽くすことはできないとしても、(把握できる)図によってこそ(その背後に広がる)地のもつ潜在性の一部が表現される。目に見える形があり、その形に把捉されない残余・外部として地(リアル)があるのではなく、地が図を含んでいるように、図もまた地を含んでいる。つまり、図と地は相互包摂的であり、図は底が抜けている(図自身が汲み尽くせない深さをもつ)。そのような、地を含んだ(底の抜けた)図=形態こそが、美であり、リアルなのではないか。

エリー・デューリングは、そのように潜在性として地を含んだ図を「プロトタイプ」と呼ぶ。また道元は次のように表現する。《人が悟りを得るのは、たとえていえば、水に月がやどるようなものである。月もぬれず、水もやぶれない。悟りも月も、広く大きな光ではあるが、小さな器の水にもやどる。月全体も大空も、草の露にもかげをおとし、一滴の水にもうつる。》(同前)

ただし、この部分だけを引くと道元の表現はやや静態的にみえるかもしれない。潜在的な地から現れた顕在的な図は、その現れの具体性によって、地のありよう揺るがせもするはずだ。ここでは、部分と全体という関係は仮のものでしかなく相対的だ。つまり、《この道、この所というのは、大でもなく、小でもな》い。(草の露に内包されるので)月や空が大きいのでもなく、(月や空を内包するので)草の露が小さいのでもない。図と地の関係を互いに互いを含み合う相互包摂的なものとして捉える、このような世界のフラクタル的な様相こそが、井上が絵画によって実現しているものだと考える。

 

井上の絵画は多くの場合、見下ろされた状態として描かれている。絵画は垂直に壁にかけられているので、観者は、通常なら地面を見下ろすことで得られる像と、水平方向への視線で対面することになる。眼前にあるのは壁(横)なのか地面(下)なのか。ここで、重力と身振りに関する混乱が生じるだろう。

また、描かれた像としては、幾重にも複雑に折り重なる植物であるのに、塗られた絵の具は層構造を作らない。筆触はほとんど重なることなく並列的に置かれ、多くの部分に空隙(キャンバスの地の白)がみられる。まるで深い密林であるかのように、みっしりと、濃厚に折り重ねられた多層構造をもつ過剰なイメージが、しばしばブランクを挟み、並列的に置かれるあっさりした薄塗りの絵の具と白地のほぼ二層の構造によって構築されている。

見下ろす構図で描かれているため、図像的には画面の一番奥にあるのは土であり、黒に近い茶色が置かれる。つまり画面の一番奥が一番暗い。しかし、絵画の構造(絵の具の層)としては、一番奥にあるのはキャンバスの白であり、奥が一番明るい。薄塗りであるため絵の具の背後の白は常に意識されるし、それは筆触と筆触の隙間からチラチラ覗いてもいる。ここにも像と構造との乖離がある。

月や空が大きいのでもなく、草の露が小さいのでもない。井上の絵画によって引き起こされる目眩のような感覚の理由の一つに、そのような「底の抜けたスケール感」があると言える。それは、前述したような、重力と身振りの混乱、二重の意味での像と構造との乖離とその共存などから生じていると思われる。大きなキャンバスに描かれた片隅の雑草。それはしかし、決して拡大された細密描写ではない。それ自体として大きくもなく、小さくもなく、それは《まさにそのようにあるのである》。

大きくもなく小さくもない絵画を前にして、私たちは自身の身体のサイズの具体性を見失い、大と小が、地と図が、互いに互いを包み合う感覚を得るはずだ。そのような経験=美の質こそが存在のリアルに触れていると信じる。

 

■2019年10月12日~12月1日 キノコヤ 「井上実展」紹介文

キノコヤでの個展開催にあたって、映画監督・黒川幸則さんの紹介文です。

 

井上実展を開催します

                                        黒川幸則(映画監督)

Once upon a time…、私が多摩川河川敷で自作映画のロケハンをしていた時、薄の原に畳三枚分もある巨大なキャンバスを敷き絵を描くのに没頭している男に遭遇した。描きかけのキャンバスの上に正座し背中を丸めてぎょろりとした目で何かに見入り歯軋りしながら一心に線を引くその男は私が近づくのにも気付かない。不穏に感じ早く通り過ぎようと叢を踏むと男は血相を変え怒り出した。どうやらその叢は男のモチーフらしいのである。恐怖を感じた私は咄嗟にさっき河原で拾った石ころを投げつける。彼岸花のような赤い血を頭から流しながらもそれには構わず(後にそれは絵の具だと知る)男は縞模様の石ころを矯めつ眇めつしこれを拾ったところに連れてけと言う。画家・井上実氏との最初の出会いである。

 

僕が井上実さんと最初にお会いしたのは今年の6月に巣鴨で行われた古谷利裕さんの新著『虚構世界はなぜ必要か?SFアニメ「超」考察』の刊行記念イベントです。この本の表紙には井上さんの作品「空地」が使われていて、それでいらしていたのです(ちなみにこの作品はキノコヤでも展示する予定です)。それまでも古谷さんのブログ『偽日記』に書かれた記事を読んで、先輩の鎮西尚一監督と連れ立って井上さんの個展にたびたび足を運んでいたのですが、ちゃんとお話しするのはこれが初めてでした。とても気さくな方でした。

 

僕が井上実さんの絵を最初に見たときに、これは森を描いているんだなと思った記憶があります。壁に掛けられた畳三畳分もありそうな大きなキャンバスに対峙し森に分け入っていく感覚。あるいはSF映画の古典『ミクロの決死圏』で小人になって人間の体内に入りその組織の中を旅する感覚。画題からすぐそれは叢だと知るのですが、目はすでに何を見ているのか分からなくなっているのです。キャンバスを切断する錯綜した線、輪郭のような塗り残しのような空隙、立ち上がってくる部分、暗渠、それらはスケールの大きさの中で一気に捉えきれないし、捉えようとすればまた違う部分が立ち上がってくるので、もどかしいぐらいにいつまで見ても終わらないのでした。

 

僕は画家が仕事をしているところに一度も遭遇したことがないので、一体どんな風にこんな具象とも抽象とも言い切れない作品を描いているのか一部始終をこっそり見てみたいのですが、井上さんと話すうちに同い年であること、生活圏が近いことなど、共通点がいくつかあると知り、とりわけ拾い癖があることとうちの近所の多摩川河川敷がモチーフ探しの場所になっていることに奇縁を感じました。僕も道に落ちてる人形や河原の石を拾ってくるのが癖で、多摩川で拾った奇岩を映画の小道具に使ったりしたのですが、井上さんも拾ってきたものをモチーフに絵を描くと言う。また、数年前に僕が多摩川の河川敷をロケーションに映画を撮っていた同日同刻、その近くで井上さんがカメラ片手にモチーフ探しをしていたかもしれず、となるとこれはもうキノコヤで個展やるしかないね!と、とんとん拍子に話は進み、この度、素人ながら、井上実展を開催する運びとなりました。

 

井上さんの絵については同業の古谷利裕さんにお願いし、詳しく語ってもらおうと思います。古谷さんは今年5、6月に開催された名古屋See Saw galleryでの井上実展でも井上さんとトークされているので、今回さらに深化したお話が聞けるのではないかと期待しています。皆さん、ぜひお越し下さい。

 

多摩川中流域でも砂金が取れると井上氏に聞かされた私は、半信半疑ながらも、…timeout

■2019年5月11日~6月29日 See Saw gallery + habit 「井上実展」テキスト

未だ見ぬ絵画の創作の沃野に向けて

                                         柄沢祐輔(建築家)

2017年の秋、私はパリのポンピドゥー・センターの常設展示室最上階の一隅に居た。「Japanness.Architecture and urbanism in Japan since 1945」という巨大な展覧会がポンピドゥー・センターの分館で開催され、そこに私の作品を展示したいという連絡がきたため、展示会場を確認するためにフランスに訪れていたのだ。20年ぶりに訪れるパリは、どことなく昨今のEUの深刻な経済不安の状況が街の様子に反映しており、海外からの来訪者が一人で彷徨ためには幾分危険な街となっていた。しかし街の中心に位置するポンピドゥー・センターに周辺を訪れると、大通りの両脇に連なる無数のカフェやレストランのオープンテラスでのその明るく活気に満ちた賑わいを見るにつれて、やはりパリはヨーロッパの文化の中心に位置する、花の都であることに依然変わりはないのだと、想いを改めつつポンピドゥー・センターへ続く大通りの石畳を踏みしめた。

分館にて招聘された展覧会の会場を確認するついでにたまたま立ち寄ったポンピドゥー・センター本館の常設展示室最上階。6000平米に及ぶその広大な空間には、西欧の近代芸術の嚆矢とされる傑作の数々が一堂に展示されていることは、勿論知っていた。ピカソからマティス、シャガールにカンディンスキー、クレーからデュシャンに至るまで、ポンピドゥー・センターには近代芸術史を織りなすほぼすべての作家の主要な作品が、所蔵コレクションとして収められている。それらはあまりに膨大な作品数に及ぶため、ポンピドゥー・センターの広大な常設展示室においても、わずかにその一部が収蔵庫から取り出され、展示されているに過ぎない。しかし、その常設展示室に並ぶ近代芸術史の到達点を刻印する作品群の数々を眺めながら歩いていると、この空間には明らかに西欧近代芸術の核心と根幹を成す作品の数々が封じ込められており、私たちが生きている今日の世界の過去に横たわる近代という時代に生み出された最良の表現の数々が、今日も訪れる人に新しい解釈と刺激を誘発する世界でも比類の無い空間であることが分かる。

私はその空間を練り歩きながら、展示された近代芸術の画期を成す作品のひとつひとつを丹念に眺めるうちに、ある事実に次第に気が付いた。それは、およそ今日の世界で生み出されるほとんどの芸術表現とは、このポンピドゥー・センターの常設展示室最上階(1960年代後半までをカバーしている)に展示されている作家の作品群によって、実のところほとんど網羅されているのではないかということである。手法が既にこの時期に出尽くしてしまっていると言い換えても良い。ピカソやマティスの大作たちと並んで展示されている、美術史的にはマイナーな作家の作品の数々が、実のところ今日の芸術家が創作に勤しむほとんどの芸術表現に潜む手法を、すでに先駆けて芸術表現として実践してしまっており、一見新規性に溢れていると思われている今日の美術界が持てはやすスター・アイコン的な芸術家の表現も、その内実を探ってゆくと、ほとんどの手法がこのポンピドゥー・センターの常設展示室最上階の空間に展示されている作品に、見出すことができるという事実である。

この度、名古屋のSee Saw Galleryにて展覧会を行う井上実氏の作品は、しかしながらこのポンピドゥー・センターの常設展示室最上階に展示されているいずれの作品の手法とも異なる、まったく新しい手法を、芸術表現として試みていると言ってよい。井上氏は、生い茂る草叢を何気ない写真としてフレーミングする。そしてそのフレーミングした光景をかぼそい、しかし丹念な筆致によってタブローへと昇華させる。そこではいかなるものごとも決してドラマタイズされることはない。しかしそれは単なる日常のそれ自体意味を持たない何気ない風景とも異なる、絵画的な緊張感が濃密に立ち込めた、そして不気味な静けさを湛えた、≪日常とは異なる日常≫を描きだしている。通常芸術家によるフレーミングという所作には、不可避的に異化作用がつきまとい、月並みな日常は非日常へドラマタイズされ転化されるのが常である。しかし井上氏の作品におけるフレーミングの所作は、日常を非日常へとドラマタイズしダイナミックに異化することはない。しかしだからと言って、日常を月並みなものとしてそのまま放り投げるというありきたりなフレーミングの所作でもない。井上氏によってフレーミングされた草叢の風景には、明らかに日常的で無意味な風景とはまるで異なる絵画的な身体感覚、ある種の緊張感が漲っているのだ。おそらくは日常を非日常へとドラマタイズするわけでもなく、しかし日常をそのまま無意味なものとして提示するわけでない、意味と無意味の間の極薄の閾を浮かび上がらせるフレーミングの所作に、井上氏の作品と手法の真骨頂があるのだろう。この手法に収められた革新性についてここでは詳述する余裕はないのだが、(そしてその考察自体長大な論考を必要とするものであるのだが)しかし一つ明らかに言えることは、ポンピドゥー・センターの常設展示室最上階に並ぶ作品のいかなる手法とも、井上氏の作品は異なるということであり、(同時に1970年代以降の西欧現代美術とも異なることは付言しなくてはならない)私たちに、まだ絵画の創作の沃野が広大に広がっていることを、井上氏の作品は確かに予感させるのである。

■2016年12月3日 galleryCOEXIST-TOKYO 「井上実展」ギャラリートーク書き起こしPDF

■2016年11月12日~12月25日 galleryCOEXIST-TOKYO 「井上実展」テキスト

 

作為と不作為と ―井上実の制作

                             野口玲一 (三菱一号館美術館 学芸グループ長 )

井上実の制作には、作為と不作為が意外なあり方で交錯している。
彼は近年もっぱら草むらを描いている。玉川上水の中流傍らにある住まいの周囲には、武蔵野台地の自然がよく残されており、取材するのはそこここに見出だされる何ということのない草深い空地である。散歩の最中にそこから気に入った一画を撮影し、それが題材となる。どんなアングルで切り取るかは、作家がどのような絵画を描きたいかという美意識に深く関わっているはずだ。
草むらの画像のプリントアウトを前に描き始めると、それは私たちが通例と考えている方法とは大きく異なっている。画像は幾分拡大されてキャンバスに転写される。草木のディテールや重なりが正確に鉛筆で描き起こされ、そこにごく薄く溶かれた油絵具で色彩が置かれていく。実景は全くと言って良い程改変されない。画像で判別できる限り、草の一本、葉の一枚まで正確に写し取られている。そんなところは誤魔化しても観る方には判らないだろうにと思うが、可能な限り作為を排するのが制作上のポリシーなのだ。
大きなサイズのキャンバスの場合、広げることができないので、巻いたキャンバスを床に置き、端から開けて描いていく。その間、作品の全貌がどのようになるのか、自分でも把握されていないようである。作品の行先をコントロールすることも放棄している。出来上がったうえで作品の全体を観て、細部を調整することもないらしい。端から描いて、反対の端まできたら終わり、といった感じなのだ。制作をコントロールしようとすると上手くゆかず、かえって失敗するとこれまでの数々の経験から信じているのだという。
作為を排して行方のわからぬまま描き、出来上がった画面を受け容れるというと、制作主体の意志をどう考えるべきなのかという疑問も生じる。自働書記の一種とみるべきなのだろうか。絵画の平面性を前提として、全体と細部との関係を意識的に制御しようとするのが、近代以降の絵画制作に通底する認識のはずだが、それを敢えて放棄しているようにもみえる。もちろん全貌の見えぬまま描き進めるのは、自身にとっても苦痛な作業なのだが、必要な結果を得るために、作家はそれを肯定的に捉えようとしている。

「描き終えるその日まで、どうやって描いたらいいのかわからないままでした。(中略) どうやったらいいかわからない事、先がわからない事に挑むとき、その人の本質が出るような気がしますので、そういう意味では、理想の状態ともいえるのです。」(作家のブログから)

では作家が敢えて作為を排除することによって得ようとしている、「本質」とは何なのだろうか。このようなユニークな方法によって出来上がる成果を、作家自身が良しとしているならば、その答えは作品のなかに見出される他ない。画面が持っている独特な質こそが、苦行のような制作の末に、作家が実現しようとしていることのように筆者には思える。
一木一草を正確に描きながら、細密に描かれた写真のようなリアルを求めているのでないことは明らかだ。画面は地面とその上を這う草葉によってくまなく満たされ、浅い奥行きをもったオールオーバーな空間が形成されている。鉛筆で描かれた輪郭は、彩色の際に消されてしまう。規則正しいのではないのだが、ほぼ同じ大きさに分節された筆触によって、画面全体に振動するようなリズムと、均質な強度が与えられている。陰影の描写はなされない。水彩のように薄い絵具の、繊細な色彩の輝き。筆触は重なりあうというより、その隙間からキャンバスの白が覗くように置かれており、それが背後から射す光の粒子のような効果を与えている。
理解に苦しむのが、高度に統御されたかにみえるこのような画面が、作家の意図的な不作為の結果として現れているということなのである。意識化され得ない、身体化された技術ということなのか。それには相当な研鑽が必要なはずだ。しかし作為を禁じることでそれが滲み出すことを、作家が経験的に知っているということなのかもしれない。

■2015年10月26日~11月7日 art space kimura ASK? 「井上実展」テキスト

 

井上実の絵画:描くことの境地について

                                                                                                                                 西村智弘(美術評論家)

 

 井上実にとっての絵画の探求は、自分が制作するに当たってもっともふさわしい絵画のあり方を見いだすことにあった。どうすれば自分の望むイメージを自分の素質に見合った描き方で絵画にすることができるのか。これは、画家であれば当然の問いかけといえるが、井上はその問いを突き詰めて追求しているうちに、かなり独自な境地に到達してしまった。それを境地と呼ぶのは、通常の画家であれば彼のようなやり方で描くことができないと思えるからである。

 井上の作家としての出発点は、白い紙に植物の葉の線画を描き、それを切り取ったものを元の位置に貼り直した作品にあった。当時は現代美術にとらわれていたと井上はいうが、絵画の前提を検証する試みであったともいえる。彼は現代美術の発想から離れ、ストレートに絵画を制作するようになる。白い画面のなかに淡い色調で観葉植物の部分を描いた作品で、絵具の質感に対するこだわりから厚塗りと薄塗りを併用していた。一方、なぜか井上は背景を描くことができずにいたが、昆虫をモチーフにすることで背景が登場し、植物のモチーフでも背景を描くことが可能になった。その後、薄塗りだけで描くことができるようになり、それとともに植物の描写が緻密になって今日の作品に至っている。

 井上の絵画は、ほぼ一貫して植物をモチーフにしている。彼は、葉と葉が重なり合って錯綜する様子に魅入られているらしく、そこから感じるリアルな印象を画面に定着させようとしている。自分で草むらの写真を撮り、それに基づいて絵画を制作しているのだが、元の写真と完成した絵画を比較すると、きわめて忠実に写真を再現していることがわかる。しかし井上の関心は、あくまで自分の感じるリアルさを実現することにあり、決して写真的な再現を目指しているわけではない。

 井上の制作の特異さは、絵画を描くときの姿勢にある。彼は、下書きをしたうえで画面全体をいくつかのパートに分け、画面の右下の方から描き始める。そこから順々にパートを描いていって、画面のすべてが埋まれば作品が完成する。このとき彼は、描いた箇所にあとから修正を加えることを原則的にしない。普通の画家であれば、画面全体の出来具合を確認しながら構図や色などを調整して描いていくものだが、井上はそうした作業をしないのであった。隅の方から順々に描いていって、直すことなくそのまま作品が完成してしまう。

 井上は、描いている最中に主観が入りこむことを極力避けようとしている。そして主観性を徹底して排除した結果、自分で判断して描くことを放棄するに至ったのである(彼が写真を忠実に描くのも、自分の判断を介入させないためだろう)。だから彼は、全体の構図や色の配分など本来なら画家が細心の注意を払うべきことに煩わされることなく描き続けることができる。井上は、下手に自分で考えるとかえって作品が悪くなるというのだが、普通ならばここまで割り切って絵画を制作することはできないであろう。しかも、彼が描いているのは単純な絵ではなく、きわめて錯綜した複雑な画面なのである。

 もちろん描かれるモチーフは井上自身が選んだものだが、彼はこのモチーフに対して限りなく虚心に向き合おうとする。井上が行っているのは、描くという行為から自分自身を消し去ることである。それは自分を否定することではなく、描く行為から自分自身を解放することであろう。わたしは、こうした制作態度を一種の無我の境地ではないかとも思うのだ。井上は、描くという行為それ自体からモチーフが自然に立ち現れるようなスタンスをつくりだしている。自分がなにかを主張するのではなく、描いている本人が無心になることによって、モチーフの本質がそのまま露わになるのである。彼が自分自身を消し去るのは、モチーフのもつリアルさを絵画として純粋に出現させるためでもあった。

 井上の絵画は、植物を忠実に描いている点でオーソドックスな作品ともいえるのだが、判断を介入させずに描くスタンスはおよそ尋常ではない。そこから生みだされる画面もまた、従来の絵画にはなかった新たな地平に到達している。井上の絵画のもつ独自性は、画面が大きいほうがより伝わるであろう。今回の個展は、彼にとって最大サイズに当たる130号の絵画を中心とした新作で構成されており、満を持しての展示となる。この展覧会は、井上の絵画の集大成であると同時に、新たな出発点となるだろう。

 

■2014年3月3日発行 「組立‐転回」 テキスト

 

機械の冥界と魂の冥界 / 井上実≪空地の端≫をめぐって。

                                                                                                                               古谷利裕(画家、批評家)

0.

このテキストは驚きに促されて書かれる。二〇一三年七月に仙川のプラザギャラリーで行われた井上実展に展示された「空地の端」と
いう作品への驚きだ。それは、作品が発する感覚の圧倒的な強さに対する驚きであり、このような作品が現在の日本で生まれ得るのだという事実に対する驚きでもある。

作品を前にして驚きを感じるとともに、その驚きについての言葉を見つけることができないという事実に戸惑いを感じる。これが「すごい」ことは一目瞭然として、では一体、何がどう「すごい」というのか。

この戸惑いはそのまま、我々が作品について何かを語る時、実はそれが一体何を語っているのかという疑問へと突き当たる。それは、どうすれば、何について語れば、作品について語っていると言えるのかという疑問でもある。共同的な意義なのか、特定の文脈の提示とそのなかでの位置づけなのか、形式の新しさの分析なのか、技量の高さなのか、あるいは作品によって与えられた感覚の質なのか。

ここでは、この「驚き」の内実を一つの思弁を媒介として探ってみることによって、作品に近づくことを試みる。

 

1.

井上実の作品に直接触れる前の予備的段階として、フェリックス・ガタリによる四つの共立平面という概念を参照したい。ただしここでは、あくまで絵画作品を理解するための助けとしてその図式の一部を借りるということで、ガタリの理論の精緻な理解や読解を目指すものではない。

『分裂分析的地図作製法』においてガタリは、《さまざまな領域におけるモデル化の体系を解読する手段》であるメタモデル化の技法として分裂分析というものを考える。そして、分裂分析を行うための図式として、世界をその存在の様態によって四つのカテゴリーに分ける。その時「潜在的(バーチャル) -実在的(アクチュアル)」と「可能的(ポシブル)-現実的(リアル)」という、虚-実に関する異なる二つの対概念が用いられ、組み合わされる。

まずそれをみる。「可能的-現実的」という対概念では、既に構成されている未発もの(可能的なもの)が現実化するということがらが表現されている。例えば樫の木の種には将来樫の木となるものが既に可能的なものとしてあり、それが様々な条件のなかで具体的な一本の木として実現(現実化)される、というようなことがらだ。対して「潜在的-実在的」という対は、未だ構成されていない問題、あるいは問題化もされてもいないようなある状態としての潜在性が、一つの出来事としての「解答(実在化)」を得るということだ。例えば、ある地方都市で、一人一人としてはそれほど目立たない活動をしていた四人のミュージシャンが出会い、バンドを組むことで画期的な仕事をしたという時、その四人の組み合わせが生じたのは出来事であり、その出来事は、その地方都市の内に潜在的には存在していたと言えるが、(樫の木の種のように)あらかじめバンドが可能的なものとしてそこで構成されていたわけではない。

種とそこから現れる樫の木の関係が、可能的なものと現実的なものとの関係であり、ある地方都市の文化的な状況とそこから生まれる地方色を持つ突出したバンドとの関係が、潜在的なものと実在的なものとの関係だと、とりあえずは言える。ただし、ガタリにおいては可能的-現実的の対における「既に構成されている」というニュアンスは必ずしも重視されている訳ではなく、種から木へという物質的でシステム的な生成という側面が強調されているようだ。

ガタリはこの二つの対概念を交叉的に掛け合わせて、(1)現実的で実在的なものの「流れ」、(2)潜在的で実在的な「テリトリー」、(3)現実的で可能的なものの「門」、(4)潜在的で可能的なものの「世界(布置)」という、この世界の四つの区域を考える(図1)。

(1)は、既に育った樫の木と既に結成されたバンドのある世界であり、つまり、既に形になった物たちが関係し、それらの共可能性が探られる通常の現実世界であると考えられる。ここは「エネルギー的で信号的な流れ」と呼ばれ「F」とあらわされる。(2)は、地方都市と個々のミュージシャンとバンドの間の関係が生じる世界、つまり潜在的なものから実在的なものが生じ、また実在的なものが潜在的なものへと還ってゆく、実在的-潜在的の対概念が混じり合い循環している領域だと言える。ここには、複数の身体諸器官とそれを統合する精神との関係性、あるいは、個人とその個人が属する集団との関係性が生じる領域(個人が集団へと統合され、集団から個人が分岐する)というニュアンスもある。いわば精神的なまとまり(魂)の領域で、「実存的テリトリー」と呼ばれ「T」で表される。(3)は、樫の木と種の関係である現実的-可能的の対の世界だが、ガタリにおいてはここはもっと根本的な、物質たちの集合から生命という再生産システムが生まれ、壊れ、再編成されてゆくような力が働いている領域として捉えられているようだ。「T」の領域が精神というニュアンスが強いのに対し、ここは物質的、機械的なシステムが生じる前のポテンシャル(リゾーム)の領域として考えられている。あるいは収束する以前の波動関数の世界という比喩を使っても、それほどは違わないのではないか。「ここ」から物が生じる、物以前の何か、の領域。この領域は「抽象機械状の門」と呼ばれ「Φ」で表される。(4)は、(バンドに対する)地方都市と(樫の木に対する)種という二種類の未発の状態が区別がつかずに混じり合っている世界であり、精神と物質との区別もつかなくなる、四つの区域で最も抽象性が高い領域だ。ここは「非物体的(布置的)世界」と呼ばれ「U」で表される。(図2)

養老孟司は、物だけあって魂がない状態を「脳死」、魂だけあって物がない状態を「幽霊」だと言ったが、ここで(2)はいわば幽霊の世界で(3)は脳死の世界とも言えるかもしれない。とはいえ、どちらの世界も「自他」が既に解体されており、死者たちだけでなくこれから生まれる者たちが含まれる世界でもあるのだが。(1)は、物と魂の共可能性が探られる領域であり、(4)は、物も魂も消えた無であり、同時に、世界のすべてが絡まり合った混沌のような領域であると、とりあえずは考えられる。

いわば、冥界が「T」と「Φ」という二種類の相容れないものとして区別されていると言える。「T」が、魂の冥界、精神的な冥界であるとすれば、「Φ」は、物質的、機械的、システム的な冥界だろう。魂の冥界と脳の冥界、この二つの相容れない冥界は、様々な物や魂たちが共可能性を探る「F」の領域と、精神と物質の境界がなくなる「U」の領域を媒介として交流し得る。逆から言えば、非連続的で言説化された「形」たちの領域である「F」と、連続的で言表的な「形のない」領域である「U」という相容れない領域が、「T」と「Φ」という「形の生成と解体の領域」である二つ冥界を媒介にして交流し得るとも言える。つまりこの四つの領域は並列的であり、重なり合っており、循環的でもある。

四つの共立平面の関係は、『分裂分析的地図作成法』という一冊の本を通じて極めて複雑に詳細に追及されてゆくのだが、ここではこれ以上は追わない。

 

2.

ここで、「絵画」について考えるために一つの直観に基づく置き換えを行ってみたいと思う。直観とは、「可能的-現実的」という対概念を「ゲシュタルト(地と図)問題」に、「潜在的- 実在的」という対概念を「フレーム(一と多)問題」に、それぞれ置き換えてみることが可能なのではないか、ということだ(図3)。この直観は、『分裂分析…』を読んでいる時に生じた。例えば、ピカソとマティスはとても近い位置にいて、互いに影響を与え合いながら制作したが、しかし根本的なところで相容れないものがあるといつも感じるのだが、その違いを、「F-Φ」間を行き来することで制作する画家(ピカソ)と、「F-T」間を行き来することで制作する画家(マティス)の違いとして考えると、けっこうすんなりと腑に落ちるのではないかと、読み進んでゆくなかで思ったのだ。

「Φ」の領域は機械状のリゾームとも呼ばれ、現実的-可能的という対が作用する場であり、「F」との関係は不連続-連続という軸上での力のやり取りである。つまり、連続的なものである絡まり合う地のなかから様々な図が分離して浮かびあがるというゲシュタルト的な生成だと言える。図は、地から不連続として分離することで図となるが、しかし後退して不可視となった地との連続的な関係のなかで図なのでもある。それは、種のもつ様々な可能性から、現実の環境によってある具体的な一本の木という形が浮かび上がる、というような種と木の関係にも対応する。あるいは、生きていると同時に死んでもいる量子的な猫が、生きている猫として出現するという関係。

対して「T」の領域は実在的-潜在的の対の場であり、ここと「F」との関係は多項的(関係)-単項的(自己準拠)という軸上でのやり取りである。これは、一が多に分岐したり、多が一に統合されたりする(モナドロジー的)生成で、この時にフレームが問題化される。それぞれ個別に活動していた四人のミュージシャン(多)がバンドを結成し(一)、解散し(多)、それぞれが今度は別のバンドに参加する(分岐したまた別の一たち)というような。またこの時、一人一人ではそれほどでもなかったが、バンドを組むことでその地方色が音楽に強く出たとすれば、また別のより大きなフレーム(地方文化)との包摂関係も現れてくる。地と図の関係のなかで複雑に絡まり合う形態(の出現と消失)と、このような多重的なフレームの複雑な入れ子関係とはその組成が異なる(図4)。

連続-不連続という軸上を移動するゲシュタルト系の画家(作品)は、機械的、パルス的であり、秩序と混沌の間を行き来し、線、形態(概念)、出現と消滅(fort/da)、図と地の関係(反転)という問題によって仕事をする。一方、自己準拠-関係という軸上を移動するフレーム系の画家(作品)は、情動(一)と効果(多)の間を行き来し、色彩、フィールド、集約と拡散、フレームの多重的操作という問題において仕事をする。モダニズムの画家で言えば、前者は、ピカソ、デ・クーニング、ポロック、ジャコメッティ、モネ、シュルレアリスム、アンフォルメルなどで、後者は、マティス、ルオー、マネ、後期印象派、モーリス・ルイス、カラーフィールドペインティングなどと言える。ピカソとマティスの仕事の仕方の根本的な違い、あるいはポロックとモーリス・ルイスの違いという、美術史上の分類では近いところにいる作家にあらわれる「根本的に違う」という感触は、連続-不連続の相克という軸において制作するゲシュタルト系か、単項(自己準拠)性-多項(関係)性の相克という軸において制作するフレーム系かの違いだと考えると、感覚的にもすんなり理解できるように思われる。あるいは、モネとマティスにおける「色彩」の意味の違いなども、

図と地という問題が、連続-不連続とかかわり、線と形態という表現をもつということは、例えばポロックの作品の変遷――図が消え、晩年にまた現れる――を見れば納得できるだろう。ポロックの作品は基本的には、折り重なった複数の線状の層の間に生じる様々なズレであり、その無数の微小な振動たちの響き合いやうねりである。それは時に大気の濃淡や振動、海面の深みのように形を持たず(オールオーヴァー)、時に雲のように様々な形や意味を虚空に浮かび上がらせる(初期や晩年)。しかし、オールオーヴァーのなかには常に無数の形態が内包されているし、形態もまたバックグラウンドのオールオーヴァーがなければ存在できない(蜘蛛の糸のような交錯から形が生まれる)。そしてそれはピカソのキューブ的な切子状の面やグリッドと繋がっているし、モネのタッチやシュルレアリスム的な自動筆記とも繋がっている。

一方、フレーム(あるいはフィールド)の問題とは関係(多)と自己準拠(一)の間にある問題に他ならず、その表現が必然的に(情動と効果を結びつけるものとして)色彩を呼び込むというそこのことを、マティスの例えば「赤い部屋」という作品が明らかなものとして証明しているように思われる。

「赤い部屋」では、赤のひろがりが支配する室内空間と、窓の外の緑のひろがる風景という二つの部分(多)が一つのフレームに共存している。それは、室内空間において(赤のひろがりの作用によって)立体-モノと平面-装飾が共存していることとパラレルであると言える。窓の外には、室内の赤のひろがりに対応する緑のひろがりがあり、テーブルに対応する生垣のような葉の集まりの塊があり、テーブル上の果実に対応する黄色い点状の花の散らばりがあり、うねる装飾模様に対応する樹の幹と枝があり、窓に対応する家がある。つまり多様な多と多様なフレーム(一)が折り重なっており、それらが、赤のひろがりとそれが反転したかのような緑の風景との対比によってつくられる広がり(フレーム)のなかに共存している。

色彩は、例えば視界全体が赤に覆われても赤という質を持ち、図と地の関係(連続と不連続)を必ずしも必要としない(自己準拠的)。しかしそれは、視界全体を覆う赤の質が、それ自身の内に既に補色としての緑を含んでいるからだとも言える(関係的)。そして、赤がその内に緑を含むのと同様、緑もまた赤を含み、そこにはフレームの相互包摂的な関係がある。色彩は、自分自身の内に既に差異を含んでいるので、図であると同時に地であり得る。つまり地でも図でもないものであり得る。

(セザンヌの場合は、素質としてはゲシュタルト系でありながら、ゲシュタルトの重力から可能な限り遠く離れようとしたのではないだろうか。)

ここには、図≒形態と、フレーム≒フィールドとの、微妙だが根本的な違いがあらわれているように思われる。形態は輪郭線によって表現される(あるいは、開かれた輪郭線によって解体する)が、フィールドは色彩の広がりによって表現される(色彩によるフィールドは輪郭線や形態に必ずしも拘束されない)。

だが、ポロックは現実的-可能的の対において制作し、マティスは実在的-潜在的の対において制作したと言っているだけではあまり面白くない。重要なのは、それがどちらも「F」の領域において実現されるということだ。「F」は、様々な形が共存し、物と魂とが共存して共可能性を追求する領域と言えた。「F-Φ」間を行き来する画家にとって「F」は、可能的な形が様々に折り重なったなかから「一つの形」が生まれる生成=集約化の場だ。一方、「F-T」間を行き来する画家にとって「F」は、「一」だった魂が「多」へとばらけてゆく、解体=展開の場である。つまり、「F-T」の画家にとって冥界→現世という道行きは「多」から「一」へという方向であるが、「F-T」の画家にとって冥界→現世は「一」から「多」への道行きであることになる。(図5)

生成の場であると同時に解体の場であり、「一」へと集約してゆく力と「多」へと拡散してゆく力とが共存する「F」の領域の可能性を最大限に引き出すことで、「F-Φ」間の通路と「F-T」間の通路とを同時に響かせるような絵画が可能なのではないか、と考えることができる。ここまで来てようやく、井上実の作品に触れることができる。

 

3.

井上実は「草」を描く。何故、草なのか。

木は時間の堆積であり、ある安定性であり、固有性でもある。草は、すくに枯れるが、またすぐに生えてくる。いつもそこに同じような草が生えている、あるいは毎年生えるとしても、それは、そこに同じ木が何十年も立っているということと同じではない。それは、同じような、あるいは同じ種類の草であって、同じ草とはいえない。しかし、「同じ草」と言ってしまってもほとんど問題がないくらいに同じではある。

草の時間は回帰するが堆積しない。

あるいは、草を繰り返し見る我々の記憶(回数)のみが堆積する。

何十年も育った木を切ることには強い抵抗が生じるが、毎年そこに生えている草を刈ることにはほとんど抵抗がない。どうせまた来年も生えてくる。勿論、今刈ったこの草と来年生える草とは同じではないのだが。

そのような意味で、草は、現実的な抽象性、あるいは、物でありつつも、ほぼ純粋に形式であるものと言える。

厳密に同じではないが、ほぼ同じと言えるもの(しかし、やはりその都度微妙に感じが違ったりするもの)が、繰り返し何度もあらわれてくる。草のこのような性質は、我々の「感覚」というもののありようを想起させる。

 

4.

「空地の端」という作品を具体的に観ていこう。大きさは縦162cm×横192cm、キャンバスに油絵の具で描かれている。タイトル通り、空地の端の地面から生える雑草がほぼ真上からの視点で描かれ、その範囲はきわめて小さく、おそらく長辺が30cm程度か、それより小さいかもしれない領域が描かれている。つまり極端な拡大図であり、細密描写と言える。

点描のようなかなり小さなタッチの集積によって描かれているが、スーラのような光学的点描とは異なり、タッチの大きさや集積の粗密にもばらつきがある。絵の具はきわめて薄く溶かれていて、タッチが比較的重ねられている部分でもキャンバスの地の白さが感じられる(光の透過がある)。大きな画面のなかに無数の小さなタッチがあるので、タッチで埋め尽くされているかのような印象があるが、タッチとタッチの間には隙間があり、キャンバスの地の白がチラチラと見えている。細密描写ではあるが、点描のような描き方なので、いわゆる「写真のように」「目に見える通りに」描かれているわけではない。あくまでタッチや色彩間の関係によって空間がつくられている。色彩はきわめて上品に抑制されていて、明らかにモダニズム絵画的な趣味が感じられる。

描かれているのは、様々な種類の草が折り重なって生えている様だと言える。草の種類によって、葉や茎の形、大きさ、生え方が違う。同じ種類の草でも生える向きや傾きが違うし、そしてそれらは複雑に重なりあってもいる。ある草は細長く、線のように画面を縦横に横切り、ある草の葉は小さなハート形で画面のなかをリズミカルに散らばり、ある草は茎から花火のように放射状に葉を開き、ある草の葉は大きいが、その上をいろいろな草に覆われて寸断されている。

草たちは非常に複雑に、高い密度でひしめくように重ねられていて、空地の隅の雑草というより密林の俯瞰図のようでもある。しかし、色調や明暗の幅が一定の範囲内に抑制されていること、空間が圧縮されている(前に極端に飛び出したり、後ろに極端に引っ込んだりするものはない、最も奥が地面でそれ以上の奥行はない)ことによって、その複雑さや密度は横への水平的なひろがりのなかで感じられる。このことは、この絵が、(伝統的な油絵のように半透明の層を重ねてゆくのではなく)点描のような無数のタッチの横への増殖によって描かれていることにもよるだろう。

点描のようなタッチは、ある意味ではモザイクのような効果をもつので、草たちの複雑な絡まり生々しさを、抽象化された装飾的な形態の複雑さへと導いているような気配もある。とはいえ、前後の空間が圧縮されているとしても、草たちの重なりはあくまでも三次元的に表象されているし、細密に描出され、なにより、草たちの重なり方はパターン化を拒むようなランダム性を強く持っているので、装飾的な平面化へ向かう気配は、ある一定のしきい値まででそれ以上先は強く押し留められている。軽い抽象化への傾向が、かえって草たちを物質性から解放し、生命力のような気配を浮遊させる効果も生じている。

(1)画面を図像としてのみ考え、そしてそこに描かれているものが雑草だということを括弧に括った上で眺めるならば、この絵が示すものは、ポロックの、五〇年前後の最も洗練されていた時期か、それより少し前くらいの時期の作品ときわめて近い空間的な構造をもつと言える。そこにあるのは、主に線状のものでできたいくつかの層(異なる種類の草)の複雑な絡み合いによって生まれる振動であり、振動が、その底に様々な異なる質(様々な突出)を内包しながらも、画面全体としては大きな突出のないなだらかな横へのひろがり(準オールオーヴァー)として展開されているような空間構造だ。

つまり、「Φ‐F」間を移動するゲシュタルト的な問題系によって生まれる絵画のように見える。

(2)しかし、この絵をよく観るならば、それが細かいタッチの(層としての重なりのあまりない)集積によって描かれていることが無視出来ないものとして目に入ってくる。また、この絵では、輪郭線に当たる部分がほぼキャンバスの地の白(タッチとタッチの隙間)によって出来ていて、輪郭がブランクとしてあることも重要だ。つまりこの絵は、図像としては複雑な重なり合いが描かれているが、タッチも色面もほとんど重なっていない。層を重ねることによってではなく、分割され、それぞれ独立した個々の部分(個々のタッチ、個々の色面)が水平的に、付け足すように展開してゆくことによって絵がつくられている。実際、画家は、完成するまで絵の全体像を見ることなく、画面を細かい区画に分けて、それを隅から埋めるようにちまちま描きすすめるのだという。

おそらくゲシュタルト系の画家においては、(それが必ずしも画面全体とは一致しないとしても)ある大きさをもった空間が一つの塊りとして捉えられている。地と図の一体となった、そこから図と地の分離が起こるマトリクスのような分割不可能な塊-ひろがりのなかで、画家は仕事をする。「わたしが自分の絵のなかにいるときは、自分がなにをしているのか意識しない」というポロックの有名な言葉は、彼の身体もまたこの分割不可能な空間のマトリクスのなかへ没入して一体化していることを示す。しかし、井上の絵画においては、制作は任意に分割された部分の付け足しによって進行する(隅から順番に完成してゆくので、完成している部分と真っ白な部分がきっぱり分かれる)。そこには分割不可能な全体があらかじめあるわけではない。違う言い方をすれば、任意に切り取られた分割可能な断片(一つの区画、一つのタッチ)が既に一つの暫定的な全体であり、ある一つの暫定的全体が他の暫定的全体と関係を形作ったり解消したりすることによって領域がひろがったり縮んだりして、画面が構築されてゆく。これは明らかに、多と一との関係によって制作する(「F-T」軸上の)フレーム系の画家の仕事の仕方であろう。

つまり「空地の隅」は、(1)図像的にはゲシュタルト系の作品であり、(2)組成的にはフレーム系の作品であり、厚みのない平面上で双方がぴたっと重なり合っているのだと言える。二つの異なる経路からくる二つの異なる冥界のささやきが、この一つの画面の上に共可能性を発見し、共に響いているのだ。この作品の、他では見られない種類の複雑さ、あるいは感覚的な強さはの原因の一つはこの点にある。

(3)「空地の隅」においてゲシュタルト系の作品のもつ表現とフレーム系の作品のもつ表現が共立的に重なっているのは端的に言えば「草を描いている」からであろう。つまり、我々が普段、折り重なる雑草を見る時も、そこにゲシュタルト的な複雑さと、フレーム的な複雑さを同時に見ている。あるいは、草のなかには、二つの種類の(相容れない)冥界からくるささやきが共に現れ出る何かが存在している。画家は、それを絵画的表現に適切に変換し得ている。

だが、もう一つ草を描いていることによる意味がある。それは、草が名づけられ、分類されているものでもあるということだ。つまり言語的な分節が可能となる。いや、必ずしも言語的と言う必要もないのかもしれない。例えば、私は草の名前や分類体系をほとんど知らないが、それでも絵に描かれている形から、この草とこの草は同じ種類で、この草とこの草とは違う種類だということを確認できる。あるいは、そのような関心の持ち方を発動させてしまう。つまり描かれたものに向ける関心が、分節的、分類的なのとして(も)作動するということだ。それはこの絵が、写真のように描かれているわけではなく、西洋近代絵画のある種の形式性を踏まえた形で描かれているとはいえ、具象的な形象をかなり正確に再現していることからくるのだろう。例えばマティスの「赤い部屋」で、テーブル上の花瓶に刺されている植物に対して、分節的、分類的な興味が発動することは(特別な植物好きでなければ)あまりないであろう。そして、そのような方向の関心をも惹起するということが、この作品の特異性を形作る重要な要素の一つとなっているように思われる。

 

5.

(3)のことがらを少し別の角度からみるために再びガタリを参照したい。今度は『機械状無意識』だ。この本では精神分析を批判的に拡張するために、精神分析が問題にする記号の領域を包摂するより大きな領域の記号についての考察が行われる。通常、精神分析が扱う記号の領域が(1)解釈的成分と呼ばれ、そこに付け加えられる新たな領域は(2)非解釈的成分という風に分類される。

(1)解釈的成分には、(A)類似(イコン)的変形、(B)シニフィアン的変形の二つがあるとされる。イコンとは類似によって指示対象と関係する記号のことで、例えば似顔絵が描かれた人を指示する場合や、困難なことがらを「ハードルが高い」などと比喩的に言うことに相当する。要するに、(A)は想像界、(B)は象徴界に相当するとざっくりと考えても(このテキストの範囲内では)いいかもしれない。

対して、(2)非解釈的成分には、(C)シンボル的変形、(D)図表的変形があるとされる。通常の記号論では、(C)のシンボルは慣習や取決めによって指示対象と関係する記号で、言語や数、標識などがこれに当たるのだが、ここでガタリは、「強度の記号論」に属するものをシンボルとしている。これは例えば、ロザリオ(シンボル)とキリスト教徒との関係、あるいは日の丸(シンボル)と国粋主義者と関係などを想起すれば、その結びつき方がたんに習慣や取決めには収まらない「強度」を介していることが理解できるのではないか。あるいはスラング(シンボル)とそれを使う集団(の閉じた親密性)との関係などもそうかもしれない。(D)の図表に関しては、非シニフィアン的で、抽象機械の作動に関するという以外よく分からない。

だがここでは、一つ一つの用語の意味を個別に理解しようとするより、この四つの異なる記号のあり様を、『分裂分析…』の共立平面上に配置してみた方が分かり易いように思う。解釈的成分の二つ(A.B)は「F」の領域に配置されるのだろうし、(C)のシンボルは多を(強度的-非合理的結びつきによって)一に束ねるのだから「T」の領域に配置されると考えられる。だとすれば、(D)の図表は当然「Φ」の領域に配置されるだろう。(図6)

さらに、「Φ-F」という軸が連続-非連続の軸であり、地と図のゲシュタルト的な軸であることを考えると、抽象機械という錯綜した機械-混沌のなかからあるシステム(シニフィアン連鎖)が生まれ、そこからシニフィアンという形象が浮かび上がると考えられ、「Φ-F」の軸に「図表-シニフィアン」という二つの領域を貫く通路が考えられる。そして、「F-T」という軸が関係(多項的)と自己準拠(単項的)の軸であり、多と一のフレーム的な軸であると考えると、類似によっていくらでも増殖する多数のイメージ(イコン)を、強度的なイメージであるシンボルが一として束ねるのだと考えられ、「F-T」の軸には「イコン-シンボル」という通路が考えられる。これは、象徴界から抽象機械(リゾーム)へ、想像界から精神(魂)へという通路だと言い換えることも出来るだろう。(図7)

このことと「空地の端」はどう関係があるのか。まず、「空地の隅」という作品が、絵画の構造として、図像的に「F」から「Φ」への通路(響き合い)をもち、また、組成として「F」から「T」への通路(響き合い)をもっているという前提があるとする(前節を参照)。そしてそのゲシュタルト的な複雑さの中に、「名」を特定できるような形で草が描かれている。その時、その名-シニフィアンへの関心は、名(シニフィアン)-言語的分類体系(シニフィアン連鎖)-//-非シニフィアン的非体系(図表)という通路を通り、遠くメカニックな冥界(Φ)からの響きを微かに絵画の内に届かせるのではないだろうか。あるいは、そのフレーム操作的な複雑さの中に、現実のある特定の種類の植物を想起し得るイコン的類似をもつ形態がいくつも見られる時、そのイコン的な記号の多数性は、遠くにあるシンボル的記号の単項的な感触(「草の魂」というような抽象性)の微かな響きを、絵画に届かせるのではないだろうか。

絵を観る者は、そこに描かれているものへの分節的、分類的な関心の発動を通して、具体的な「この植物」から先へと伸びてゆく、前・草、あるいは元・草ともいうべきものへ繋がる、機械状の冥界、魂の冥界からの響きの通路に接続され、その響きが「ここ」に重ねられ、その重なりを聴くのではないか。それらの響きは、絵画としての造形的、形式的、構造的なものからくる(前節でみた)冥界の響きとは、別の経路を伝ってやってくるので、それとはまた別の感覚的な質をもった、別の響きとして感受されるのではないか。そこのことが、画面をより複雑で強いものとする。

 

6.

井上実は「草」を描く。それは具体的な、そこにある草であり、同時にそうではない。

井上実は写真を用いて仕事をする。つまりそれは、具体的に、いつかの、どこかの草の状態の、正確な姿の反映である。しかし、あの時、あの場所の草の状態と、この時、この場所の草の状態の区別などつくのだろうか。いや、区別がついたとしても、その違いにどのような意味があるのか。

あの草もこの草も大した違いはないし、違いがあったとしても大した意味はない。しかしだからこそ正確に、ある時、ある場所の草でなければならず、だがそれは、その時、その場所の草の状態だけを表現するのではない。ある一般化された草でもないし、記憶の蓄積のなかで形作られた、数々の草たちの集積としての抽象的な草でもない、ある時間、空間の下に切り出され、孤立させられた草の状態が、そうであるからこそ、他であった、他であり得たがなかった、別の草たちの声を響かせる。例えばバラを飾る我々が見ているものは、そのバラそのものでもあり、「バラ」という一般的なものでもあるが、それよりむしろ、個物としてのバラと一般的なバラとの中間にあって両者を響かせている、その「響き(紐帯)」こそを見ているのではないか。それは、代替不可能な「これ」として愛情をこめて植木を育てることとはかなり違う感覚だろう。

だがそれは草そのものがもっている性質だ。ここでは、草花が飾られるのでもなく、写真の画像がそのまま転写されるのでもなく、それが絵として描かれる。しかも、サービスサイズか、せいぜい2Lサイズであろうその参照元の画像が、例えば、縦162cm×横192cmにまで拡大される。ある時間、ある空間として切り離された一瞬の草の状態が、とても長い時間、とても大きなエネルギー、そして高度に蓄積された絵画的な技術と教養をその間に通すことで変質する。つまりそこに、もともと草が持っていたものとは別の響き、別の通路がいくつも追加される。

例えば、明日になれば枯れてしまっていたかもしれない草が、写真に撮られ、その後半年かけて、大きなサイズに拡大され、バラバラな小さなタッチたちの集合や離散として再構成される。そこではまず、時間や空間(サイズ)が相対化されて伸縮の自由度を増し、様々な絵画的な記憶や情動が差し挟まれてゆくことで多数の逸脱への通路が引かれる。画面に接続された無数の通路は、様々な遠くの響きを「そこ」に響かせる。

 

 

 

■2011年10月14日 東京新聞 美術評「井上実展」        

 

過剰な ささやかさ         古谷利裕(画家、批評家)

 

 

 

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