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    テキスト

    October 11, 2019

    今回キノコヤさんでの個展のために、古谷利裕さんにテキストを書いていただきました。

    ぜひご一読ください。

     

    月や空が大きいのでもなく、草の露が小さいのでもない 井上実の絵画

    古谷利裕

     

    《魚が水を行くとき、いくら泳いでも水に果てしがなく、鳥が空をとぶとき、いくらとんでも空に限りがない。しかしながら、魚も鳥も、いまだかつて水や空を離れたことがない。働きが大きいときは、使い方も大きいし、働きが小さいときは、使い方も小さい。》

    《それにもかかわらず、水を究め、空を究めてのちに、水や空を行こうとする鳥・魚があるとしたら、水にも空にも、道を得ることも所を得ることもできない。そうではなく、この所を得れば、また、その道を得れば、この日常現実がそのまま永遠の真実となる。この道、この所というのは、大でもなく、小でもなく、自分でもなく、他のものでもなく、初めよりあるのでもなく、いま現れるのでもないから、まさにそのようにあるのである。》

    (道元『正法眼蔵』「現成公案」現代語訳・玉城康四郎)

     

    何もない無限定な広がりに、何か動くものが横切る。その時はじめて、広がりは「空」となり、動くものは「鳥」となる。鳥という形(図)が生じ、それ以外の部分が空となり、地として後退する。空がまずあってそのなかに鳥がいるのではなく、動くもの、形としての鳥が生まれることで、同時に空も生まれる。その意味で、鳥(図)とは、表現された空(地)の一つの側面であると言える。

    現代のアートにおいて「美」というものが軽んじられていることを不当だと感じる。美は一種の予定調和であり、美に回収されない余剰としての、崇高、外部、他者、政治、権力、コンフリクト、プロセス、等々にこそリアルがある、と。だが、もはやこのような論理のあり方こそ紋切り型ではないか。

    たとえば、図と地というものを考える時、地は図の外部なのではない。図は、地の一部であり、地の一つの側面を表現するものだ。図と地の関係によって一つの形態=美が生まれる。そこで、図によって地のすべてを汲み尽くすことはできないとしても、(把握できる)図によってこそ(その背後に広がる)地のもつ潜在性の一部が表現される。目に見える形があり、その形に把捉されない残余・外部として地(リアル)があるのではなく、地が図を含んでいるように、図もまた地を含んでいる。つまり、図と地は相互包摂的であり、図は底が抜けている(図自身が汲み尽くせない深さをもつ)。そのような、地を含んだ(底の抜けた)図=形態こそが、美であり、リアルなのではないか。

    エリー・デューリングは、そのように潜在性として地を含んだ図を「プロトタイプ」と呼ぶ。また道元は次のように表現する。《人が悟りを得るのは、たとえていえば、水に月がやどるようなものである。月もぬれず、水もやぶれない。悟りも月も、広く大きな光ではあるが、小さな器の水にもやどる。月全体も大空も、草の露にもかげをおとし、一滴の水にもうつる。》(同前)

    ただし、この部分だけを引くと道元の表現はやや静態的にみえるかもしれない。潜在的な地から現れた顕在的な図は、その現れの具体性によって、地のありよう揺るがせもするはずだ。ここでは、部分と全体という関係は仮のものでしかなく相対的だ。つまり、《この道、この所というのは、大でもなく、小でもな》い。(草の露に内包されるので)月や空が大きいのでもなく、(月や空を内包するので)草の露が小さいのでもない。図と地の関係を互いに互いを含み合う相互包摂的なものとして捉える、このような世界のフラクタル的な様相こそが、井上が絵画によって実現しているものだと考える。

     

    井上の絵画は多くの場合、見下ろされた状態として描かれている。絵画は垂直に壁にかけられているので、観者は、通常なら地面を見下ろすことで得られる像と、水平方向への視線で対面することになる。眼前にあるのは壁(横)なのか地面(下)なのか。ここで、重力と身振りに関する混乱が生じるだろう。

    また、描かれた像としては、幾重にも複雑に折り重なる植物であるのに、塗られた絵の具は層構造を作らない。筆触はほとんど重なることなく並列的に置かれ、多くの部分に空隙(キャンバスの地の白)がみられる。まるで深い密林であるかのように、みっしりと、濃厚に折り重ねられた多層構造をもつ過剰なイメージが、しばしばブランクを挟み、並列的に置かれるあっさりした薄塗りの絵の具と白地のほぼ二層の構造によって構築されている。

    見下ろす構図で描かれているため、図像的には画面の一番奥にあるのは土であり、黒に近い茶色が置かれる。つまり画面の一番奥が一番暗い。しかし、絵画の構造(絵の具の層)としては、一番奥にあるのはキャンバスの白であり、奥が一番明るい。薄塗りであるため絵の具の背後の白は常に意識されるし、それは筆触と筆触の隙間からチラチラ覗いてもいる。ここにも像と構造との乖離がある。

    月や空が大きいのでもなく、草の露が小さいのでもない。井上の絵画によって引き起こされる目眩のような感覚の理由の一つに、そのような「底の抜けたスケール感」があると言える。それは、前述したような、重力と身振りの混乱、二重の意味での像と構造との乖離とその共存などから生じていると思われる。大きなキャンバスに描かれた片隅の雑草。それはしかし、決して拡大された細密描写ではない。それ自体として大きくもなく、小さくもなく、それは《まさにそのようにあるのである》。

    大きくもなく小さくもない絵画を前にして、私たちは自身の身体のサイズの具体性を見失い、大と小が、地と図が、互いに互いを包み合う感覚を得るはずだ。そのような経験=美の質こそが存在のリアルに触れていると信じる。

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