テキスト
シーソーギャラリーでの「井上実展」のために書いていただいた、柄沢祐輔さんのテキストです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
未だ見ぬ絵画の創作の沃野に向けて
2017年の秋、私はパリのポンピドゥー・センターの常設展示室最上階の一隅に居た。「Japan-ness.Architecture and urbanism in Japan since 1945」という巨大な展覧会がポンピドゥー・センターの分館で開催され、そこに私の作品を展示したいという連絡がきたため、展示会場を確認するためにフランスに訪れていたのだ。20年ぶりに訪れるパリは、どことなく昨今のEUの深刻な経済不安の状況が街の様子に反映しており、海外からの来訪者が一人で彷徨ためには幾分危険な街となっていた。しかし街の中心に位置するポンピドゥー・センターに周辺を訪れると、大通りの両脇に連なる無数のカフェやレストランのオープンテラスでのその明るく活気に満ちた賑わいを見るにつれて、やはりパリはヨーロッパの文化の中心に位置する、花の都であることに依然変わりはないのだと、想いを改めつつポンピドゥー・センターへ続く大通りの石畳を踏みしめた。
分館にて招聘された展覧会の会場を確認するついでにたまたま立ち寄ったポンピドゥー・センター本館の常設展示室最上階。6000平米に及ぶその広大な空間には、西欧の近代芸術の嚆矢とされる傑作の数々が一堂に展示されていることは、勿論知っていた。ピカソからマティス、シャガールにカンディンスキー、クレーからデュシャンに至るまで、ポンピドゥー・センターには近代芸術史を織りなすほぼすべての作家の主要な作品が、所蔵コレクションとして収められている。それらはあまりに膨大な作品数に及ぶため、ポンピドゥー・センターの広大な常設展示室においても、わずかにその一部が収蔵庫から取り出され、展示されているに過ぎない。しかし、その常設展示室に並ぶ近代芸術史の到達点を刻印する作品群の数々を眺めながら歩いていると、この空間には明らかに西欧近代芸術の核心と根幹を成す作品の数々が封じ込められており、私たちが生きている今日の世界の過去に横たわる近代という時代に生み出された最良の表現の数々が、今日も訪れる人に新しい解釈と刺激を誘発する世界でも比類の無い空間であることが分かる。
私はその空間を練り歩きながら、展示された近代芸術の画期を成す作品のひとつひとつを丹念に眺めるうちに、ある事実に次第に気が付いた。それは、およそ今日の世界で生み出されるほとんどの芸術表現とは、このポンピドゥー・センターの常設展示室最上階(1960年代後半までをカバーしている)に展示されている作家の作品群によって、実のところほとんど網羅されているのではないかということである。手法が既にこの時期に出尽くしてしまっていると言い換えても良い。ピカソやマティスの大作たちと並んで展示されている、美術史的にはマイナーな作家の作品の数々が、実のところ今日の芸術家が創作に勤しむほとんどの芸術表現に潜む手法を、すでに先駆けて芸術表現として実践してしまっており、一見新規性に溢れていると思われている今日の美術界が持てはやすスター・アイコン的な芸術家の表現も、その内実を探ってゆくと、ほとんどの手法がこのポンピドゥー・センターの常設展示室最上階の空間に展示されている作品に、見出すことができるという事実である。
この度、名古屋のSee Saw Galleryにて展覧会を行う井上実氏の作品は、しかしながらこのポンピドゥー・センターの常設展示室最上階に展示されているいずれの作品の手法とも異なる、まったく新しい手法を、芸術表現として試みていると言ってよい。井上氏は、生い茂る草叢を何気ない写真としてフレーミングする。そしてそのフレーミングした光景をかぼそい、しかし丹念な筆致によってタブローへと昇華させる。そこではいかなるものごとも決してドラマタイズされることはない。しかしそれは単なる日常のそれ自体意味を持たない何気ない風景とも異なる、絵画的な緊張感が濃密に立ち込めた、そして不気味な静けさを湛えた、≪日常とは異なる日常≫を描きだしている。通常芸術家によるフレーミングという所作には、不可避的に異化作用がつきまとい、月並みな日常は非日常へドラマタイズされ転化されるのが常である。しかし井上氏の作品におけるフレーミングの所作は、日常を非日常へとドラマタイズしダイナミックに異化することはない。しかしだからと言って、日常を月並みなものとしてそのまま放り投げるというありきたりなフレーミングの所作でもない。井上氏によってフレーミングされた草叢の風景には、明らかに日常的で無意味な風景とはまるで異なる絵画的な身体感覚、ある種の緊張感が漲っているのだ。おそらくは日常を非日常へとドラマタイズするわけでもなく、しかし日常をそのまま無意味なものとして提示するわけでない、意味と無意味の間の極薄の閾を浮かび上がらせるフレーミングの所作に、井上氏の作品と手法の真骨頂があるのだろう。この手法に収められた革新性についてここでは詳述する余裕はないのだが、(そしてその考察自体長大な論考を必要とするものであるのだが)しかし一つ明らかに言えることは、ポンピドゥー・センターの常設展示室最上階に並ぶ作品のいかなる手法とも、井上氏の作品は異なるということであり、(同時に1970年代以降の西欧現代美術とも異なることは付言しなくてはならない)私たちに、まだ絵画の創作の沃野が広大に広がっていることを、井上氏の作品は確かに予感させるのである。
柄沢祐輔(建築家)